リフトから無事飛び降りて斜面を登り切った僕は、安堵に満ち溢れた気持ちでスキーを穿いた。あとは山の反対側のふもとに向けて、滑り下りるだけだ。日が暮れて大分経つが、雪明かりで視界も良好だ。僕は大きなターンを繰り返しながら、ゆっくりと山を下りていった。
宿に着いたのは、夜10時を過ぎていた。案の定、デニスはビールを飲みながらポテトチップスを食べていて、僕を見るなりこう言った。
Hey Suchan! Where have you been? I’ve been worried abou you.
もちろんその表情には、心配のかけらもない。能天気なものだ。僕は何が起こったかを話し始めた。
You know what happened? I got on a ski lift and it suddenly stopped. I had to jump off the chair…
が、途中で説明を止めた。デニスは僕の身に起こったことなどまるで無関心で、三本目のビールを空けて僕に勧めたからだ。
Here. Let’s toast your good fortune!
デニスに望みを託し救助が来るのを待たなくて、本当に良かった・・・ 僕は自分の決断と幸運に感謝しながら、ビールをグイと空けた。
翌日からは、毎日夢中で滑った。まだスキー初心者のデニスとは基本的に別行動とし、ロープウェイの乗り場付近で待ち合わせては一緒に昼食をとった。夕方の日が暮れる前にまた同じ場所で待ち合わせ、ロッカールームで着替えてからロッジまで一緒に帰ることにしていた。
3日目の朝。ロッカールームでデニスと雑談しながら、僕は着替えを始めた。宿から履いてきた Fabiano の登山靴をロッカーの上に置き、肩に担いできたスキーブーツに両足を入れ、丁寧にバックルを締めた。そして登山靴をロッカーにしまおうと上を見た。
無い・・・
そこからは、登山靴が消えていた。僕はとっさに、側にいたデニスに叫んだ。
What happened to my mountain boots?
Your boots? I don’t know. Are you sure you put them on there?
デニスは知らないという。二人で並んで着替えているそのすぐ側を、誰かがサッと通り過ぎて登山靴を持ち去っていったのか・・・? 僕は下を向いていたので見えなくても仕方ないが、横に立っていたデニスも気づかないことなど、あり得るのか?
メキシコ登山ツアーで使った、記念すべき Fabiano の靴だ。5400メートルの頂上まで一緒に登った、信頼できる相棒だ。それが一瞬の隙に、まるで手品のように消えて無くなってしまった。僕はパニックになった。
ロッカールームの隅々を探した。部屋にはもう僕たちしか残っていない。万策が尽きた。これ以上は時間の無駄だ。とりあえずブーツを履いてスキーに出た僕は、リフトの上で何度も状況を思い出しながら、諦めるしかなかった。
慎重な僕も、アメリカでは何度か盗難被害に遭っている。
NY近くのニューアーク空港から、サンフランシスコに向けて国内便を利用した時もそうだ。ハーバード大学院の卒業式に両親を呼び、一緒にアメリカ各地を旅行して、最後に西海岸とハワイに寄って日本に帰る途中のことだった。
チェックイン・カウンターで搭乗手続きをする際、チケットにサインをしようと、僕は右手に提げていたアタッシュケースを床に置いた。すぐ後ろには、僕の両親が荷物を持って待機している。
五秒後、サインし終わって膝元のアタッシュケースを持とうとした僕の右手は、宙で空振りした。ケースが消えている! 無意識に預けてしまったのかとカウンター越しのスタッフに訊くと、受け取っていないという。まるで狐につままれたようだった。
真後ろに立っていた両親に訊くと、つい先ほどまでは足元にあったのを見たそうだ。母が「そう言えば一瞬、黒い影が通り過ぎたような気がする・・・」とつけ足した。盗まれたのだ!
僕は青くなった。現金、クレジッドカード、パスポートなど、飛行機のチケット以外のすべての貴重品が入っていたからだ。ハーバードの学生証、苦労して取得した PADI オープンウォーター上級者認定証、運転免許証、そして何よりも悔しかったのは、自慢のカーキ色のアタッシュケースだった。初めてのヨーロッパ旅行でフィレンツェで購入した思い出の品だ。
こうしてはいられない。飛行機の発着時間が迫っている。僕は近くを通りかかった警官を大声で呼び止め状況を説明した。ところがこの辺りでは日常茶飯事の出来事のようで、大して気にも留めない様子だ。
頑なに詰め寄る僕に対して、その警官は面倒くさそうに手持ちの書類の角をビリッと破った。その5センチぐらいのくしゃくしゃの紙片に、名前と連絡先を書けという。僕たちの姿が見えなくなったら、すぐにゴミ箱行きになったに違いない。
たとえどこかに置き忘れたとしても、誰かが拾って警察に届けてくれることなど、アメリカではまずあり得ない。盗難届や被害届は、被害を保険でカバーする時の証明書になる程度で、届けたからと言って盗まれたものが戻ってくるはずはない。僕は飛行機の上から電話をかけまくってカードを使用停止にしたり、パスポート再発行の手続きに必要な手順と期間を確認した。
後で調べてみると、ニューアーク空港はスラム街に隣接しており、治安の悪さはアメリカの中でもトップクラスだったようだ。そう言えば空港へのタクシー運転手も妙に饒舌で、僕らのことをあれこれ聞いたりしていた。犯人とグルだったのかも知れない。
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