裕福なこの家族は、経済力も生活習慣も物の考え方も、日本の僕の家族とは全く異なっていた。ただし、経済力があるとは言っても、多額のお小遣いを子供に与えて好き勝手させ放題ということは決してなかった。

子供たちはブ〜ブ〜不平を言いながらも芝刈りやプール掃除をまるで宿命のように淡々とこなしていたし、無断で外食をすることはなかった。その一方で、毎晩のディナーでは、父母の「今日はどうだった?」みたいな質問は完全に無視し、いつも壮絶な兄弟喧嘩が繰り広げられた。そしてホストマザー自慢のミートローフ(超美味しかった!)を黙って平らげると、”May I be excused?” と言ってさっさと自分の部屋に戻っていく。

父が冗談を言いながら場を盛り上げてくれていた日本の食卓を思い出すと、この罵詈雑言のディナータイムは耐え難かった。両親や年配者を敬うことを当然のように考えていた僕にとって、子供が親と対等に口をきくということは新鮮だったし、感情的な罵詈雑言は聞くのは嫌だったし、反抗的な子供に対して両親がなぜこんなに落ち着いていられるのだろうと不思議だった。

日本でもよくある光景かも知れないが、親の接し方が日本とは大きく異なっていた。米国のカルチャーでは彼らは成熟した大人として見なされ、家族の一員としての役割が存在し、常に議論があり、葛藤を経験する。

当然、僕はなかなか「家族の一員」という気持ちにはなれなかったが、やがて自分が「子供」として入り込もうとするから無理があるのだということに気づいた。高校生はもう立派な大人だ。対等に親と喧嘩や議論をし、社会に適応できる人格を形成していくことを期待されているのだ。

ある日、十セント程度の金額を巡って、ホストマザーが知り合いと電話で大喧嘩をしていたことがあった。それを聞いていた僕は、”Don’t be upset; it’s not a big deal.” 「大した額じゃないんだからそんなに大騒ぎしなくても・・・」と言ったところ、ホストマザーにとことん説教された。

彼女曰く、”I don’t care how much, but it’s a matter of principle.” 「額なんてどうでもいいの。これは道義の問題よ!」僕は何か背が伸びる思いがした。白洲次郎が「プリンシプルのない日本」という本を書いているが、principle(主義・ 原則)というのは欧米の文化では非常に重要なんだということを痛感した。