就職先の企業は、銀行などの基幹系システムを中心とした大型コンピュータの最大手だった。給料をもらいながらコンピュータのことを一から教えてくれるということで、とりあえずは3年頑張ってみようという軽い気持ちで入社したが、現実は想像以上に大変だった。

入社してから1年半は、営業所に出向しながら一週間交代で過密な研修スケジュールをこなす。最後は総仕上げとして、合宿型式で入社研修の「卒業試験」を受けることになるが、それに落ちると間接部門に配置換えされるので、誰もが必死だ。

僕が配属された部門は、全国のシステムズ・エンジニアの総本山と言われた。どんな難題であろうが、ここにコンタクトすれば解決できないものはない。そのため、自尊心の塊のようなエリートだらけで、服装も言動も奇抜だった。

そんな環境の中、昼夜が逆転したマシン優先の生活に何年も耐え抜いた末、僕は思いがけないチャンスに巡り合った。社内の留学試験にパスしたのだ。

その会社では毎年3人、自己啓発のためにアメリカの大学院に送り込む。もちろん修士号を取得するのが前提だ。留学中も給料は全額支給されるが、業務からは完全に離れ、好きな分野の勉強をして構わない。学費も全額会社が負担してくれる。

配偶者がいればその渡航費(もちろんビジネスクラス)も負担してくれるということで、出発直前に結婚した同期留学生もいた。合格が発表されると、なぜか僕も急にモテモテ、社内の女の子何人かにアプローチされた。女性は実に現実的だ。物価の安いアメリカで経済的にも保証され、旦那が勉強でひいひい言っている間に、アメリカ生活を満喫できるというわけだ。

ウィンドサーフィンに明け暮れながらも、僕は着々と準備をすすめた。社内試験にパスしても、それは学費と給料を会社が出してくれるという保証だけで、大学院への出願と合格は自分の責任だ。ごく稀だが、どの大学にも入学を認められず、やむなく留学を断念したという人も過去にいたそうだ。

全米どこの大学院に応募してもいいということで、僕の頭に最初に浮かんだのハワイ大学だった。ハワイで2年も過ごしたら人生変わるはず、これは自分にとって絶対にプラスになる。そう思った僕は、人事に恐る恐る電話した。

僕:「あの~、大学院の応募先ですけど・・・ ハワイ大学でもいいですか?」

人事:「良くないね~」

人事との会話はそのひと言で終わった。

多忙を極めた業務の合間を縫って、僕はアメリカの有名大学に絞って願書を取り寄せた。学部に関する規制はなかったが、MBAは禁止というルールがあった。過去にMBAを取得して戻って来た途端、すぐに退社してしまった例があったからだそうだ。

ハワイ大学が駄目なら、アメリカ横断旅行の経験から、温暖な気候とゴージャスな美女に恵まれたカリフォルニアが最優先だ。スタンフォード大学はもとより、カリフォルニア大学(University of California)ならレベル的にも十分だろう。

カリフォルニア大学の中では、UC バークレー、UCサンタバーバラ、UC サンディエゴなどが候補に上がった。ただし UCLA はちょっとレベルが下がり、多少軽薄な印象だったので、あえて外した。

東部ではアイビーリーグのうち、とりわけ有名なハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学、そして滑り止めとしてブラウン大学に絞った。特にイェール大学は建築学部が有名で、建築の勉強もしたかった僕の第一志望でもあった。

コンピュータ・サイエンスの分野では、まず MIT は外せない。カーネギーメロンも非常に有名だ。西の雄としてカリフォルニア工科大学があるが、あまりにもレベルが高すぎるのと、天文学が突出しているとの評判だったので、これも外した。

社内試験の合格が決まったのは10月頃だったので、少なくとも年末までには願書を作成して送付しないと翌年の留学には間に合わなかった。切迫したスケジュールの中で、僕は大学時代にお世話になった教授たちに依頼し、英語の推薦状を取り揃えた。

学校別に、志願趣旨をまとめた論文の提出が求められた。何をやりたいかの具体性が重要なので、同じものを出すわけにはいかない。合否を左右する要なので、慎重に内容を吟味した。

英語能力の証明として TOEFL を受験し、そのスコアの提出も必要だ。ろくに準備もせずに受験した僕のスコアは 620点だったが、600点以上あれば全米トップクラスのビジネススクールでも問題ないと知りひと安心した。ただ、もっと高い点が取れるはずだともう一度受験してみたところ、全く同じ 620点という結果になり不満だったが、もうこれで良しとした。

まだ山ほど準備が残っていたからだ。共通試験である GRE の受験も必要だった。語彙力をテストする Verbal、推論力をテストする Analytical、基礎数学力をテストする Quantitative の3部門に分かれており、Verbal は日本人には歯が立たないので捨て、それを補うために Analytical と Quantitative でぶっちぎりのスコアを取る必要があった。これも準備する時間的余裕はなく、ぶっつけ本番で臨んだ。

また、半分は建築学部への応募だったため、ポートフォリオの提出が必須だった。そのためにデッサンをし、CGによるモデリングをし、模型を制作したりもした。これらを深夜に及ぶ会社業務と並行してこなすのは、非常に大変だった。

何とか年末ぎりぎりに、願書一式をすべての10校に送付し終わり、僕は落ち着かない正月を過ごしながら結果の到着を待った。年が明けて2月・3月になると、願書を出した大学から結果の通知が届き始めた。

一校、また一校と、不合格の通知。やはりダメか。もっとレベルを落としておけば良かった・・・

そう思い始めた4月のはじめ、ハーバード大学から合格の通知が届いた!